
長年ツインレイというテーマを見てきて、最近とても腑に落ちていることがあります。
ツインレイは、大きな振り子のようなものなのではないか。
私たちは普段、自分のことをある程度わかっているつもりで生きています。「私はこういう人」「私はこんなことはしない」「私は一人でも大丈夫」「私は人に依存しない」「私は感情的にならない」。
でも、ツインレイと思えるほど強く心を動かされる人に出会うと、その「私」が簡単に崩れてしまうことがあります。
普段なら人を追いかけないのに追いかけてしまう。嫉妬なんてしないと思っていたのに、ものすごく嫉妬する。一人で大丈夫だったはずなのに、その人がいないことがたまらなく寂しい。信じたいのに疑ってしまう。会いたくて仕方がないのに、もう二度と会いたくないと思うこともある。
どうして私は、この人のことになるとこんなふうになってしまうのだろう。
私は以前、こういう状態を「相手に振り回されている」と捉えていたこともありました。
でも最近は、少し違って見えています。
もしかするとツインレイは、私たちの中にある振り子を、普段よりずっと大きく振る相手なのではないか。
私たちは生きていく中で、知らず知らずのうちに振り子をどちらか一方へ振って生きています。
「人に迷惑をかけてはいけない」と思ってきた人は、自分で何でもする側へ振れる。「傷つきたくない」と思った人は、人を必要としない側へ振れる。「嫌われたくない」と思った人は、自分より相手を優先する側へ振れる。
それは、その人が生きていくために身につけてきた大切な方法だったのだと思います。
でも振り子が一方へ大きく振れた分だけ、反対側には、これまで生きてこなかった自分がいる。
一人で大丈夫な私の反対側には、誰かに頼りたい私がいる。人を優先してきた私の反対側には、「私を一番にしてほしい」と願う私がいる。冷静な私の反対側には、泣いたり怒ったり嫉妬したりする私がいる。自由でいたい私の反対側には、誰かと深くつながりたい私がいる。
普段の人間関係では、そこまで振り子が大きく動かないから、反対側の自分に気づかないまま生きていける。
ところがツインレイは、その振り子を思い切り反対側へ振ってしまう。
だから、「こんな私は私じゃない」と思うような自分まで出てくる。
でも、本当はそれも私なんですよね。
私はここが、ツインレイという関係のとても大切なところなのではないかと思っています。
ツインレイは、理想の自分になるために現れるのではなく、「あなたの中には、こんなあなたもいますよ」と、自分が切り離してきた反対側を見せてくれる。
だから、振れ幅が大きいほど苦しい。
愛していると、憎いほど腹が立つこともある。信じたいからこそ、疑いも出てくる。一緒にいたいのに、逃げたくなることもある。
でも、それを「低い自分」「未熟な自分」として消そうとするのではなく、「私の中には、こんな私もいたんだ」と知っていく。
そして私は、それが統合につながっていくのだと思っています。
統合とは、振り子が二度と振れなくなることではない。
感情がなくなることでも、執着しなくなることでも、いつも穏やかでいられることでもない。
統合とは、どちらに振れても自分を失わなくなること。
私は一人でも大丈夫。でも、あなたにそばにいてほしいと言ってもいい。あなたを愛している。でも、あなたがいなければ私は生きられない、ではない。人を大切にしたい。でも、そのために自分を犠牲にしなくてもいい。
どちらか一方だけを「本当の私」にするのではなく、両極を経験して、「ここからここまで、全部私だった」と知っていく。
そうすると不思議なことに、振り子は少しずつ中心へ戻ってくる。
中心とは、何も感じなくなる場所ではありません。
どんな自分が出てきても、「これも私」と自分のところへ戻ってこられる場所。
だからツインレイは、私を完成させてくれる人でも、私の半分を持っている人でもないのかもしれません。
私という存在の振れ幅を、最大限に見せてくれる人。
そして、その大きな振り子の中で出会うのは、相手だけではない。
ずっと強く生きてきた私も、弱かった私も、愛した私も、憎んだ私も、追いかけた私も、逃げた私も、全部そこにいる。
そう考えると、ツインレイの統合とは、二人が一つになることよりも、
自分が切り離してきた、たくさんの「私」が、もう一度ひとつになっていくこと。
なのかもしれません。
ツインレイは、大きな振り子。
大きく振れたからこそ、私は自分の反対側まで見ることができた。
そして最後に戻ってくるのは、相手のところではなく、自分自身の中心なのだと思います。

