
先日、長崎巡礼の旅をして、ひとつのスイッチが入りました。
それは、これまでの自分では考えられなかった変化でした。
私はずっと、人前で話すことにどこか抵抗がありました。
伝えることはしてきましたが、前に立って話すということには、無意識のブレーキがかかっていたのだと思います。
けれど、長崎の地に立ったとき、
ある記憶が、あまりにもリアルに浮かび上がってきました。
それは、スペインの宣教師として外国で生きていた前世の記憶でした。
言葉ではなく、感覚として。
空気、光、人々の眼差し、祈りの場の静けさ。
それらが一瞬で重なり、「ああ、私は話していた人だった」と思い出したのです。
その瞬間、不思議と話してみたいという感覚が、内側から静かに湧き上がってきました。
無理に変えようとしたわけではありません。
ただ、記憶が戻ったことで、封じられていた回路が自然に開いたような感覚でした。
そしてもうひとつ、強烈な体験がありました。
潜伏キリシタンの痛みを、身体で感じたことです。
大浦天主堂で祈りをしたあと、いきなり、首、肩、背中 手の激痛で動けなくなったのです。
そして、胸の奥から締めつけられるような苦しさと、逃げ場のない圧迫感もでてきて、半日ほど、ほとんど動くことができないほどの状態になりました。
なぜここまでリアルに感じるのか、最初は戸惑いもありました。
けれどその時間の中で、私はただ祈ることしかできませんでした。
そして同時に、見えないエネルギーのようなものも、確かに感じていました。 そのことを伝えた友人からのありがたいサポートもありました。
祈りと支えのエネルギーに包まれるようにして、その痛みは少しずつほどけていきました。
気がついたときには、身体は元に戻っていました。
この一連の体験を通して、ひとつの理解が降りてきました。
これは個人的な体験というよりも、
まだ解放されていない記憶やエネルギーに触れたのだということ。
そして同時に、それを解放していく役割が自分に与えられているのだと、はっきりと感じました。
潜伏キリシタンの時代に刻まれた祈り、恐れ、そして沈黙。それらは、いまもなお見えない層に残っています。
遠藤周作の本や映画にも何回も触れました。
長崎の地は、その記憶が色濃く残る場所でした。
だからこそ、あのような体験が起きたのだと思います。
そして私は、そのエネルギーをただ感じるだけではなく、解放していく側に立つことを選んだのだと感じています。
話すことへのブロックが外れたのも、
その流れの一部なのかもしれません。
これから私は、これまで避けてきた人前で話すという行為を通して、
見えない領域の記憶やエネルギーに光を当てていくのだと思います。
それは誰かのためというよりも、時代に残されたものを、静かにほどいていく作業です。
長崎で起きたことは、私にとってひとつの「再起動」でした。
そして同時に、これからの方向性を明確に示すサインでもあったのです。
きっと私だけでなく、みなさんにとっても、魂を起動させるような土地や出会いがあると思います。

