ランナーとチェイサーは振り子の両端

ランナーとチェイサーは、振り子の両端なのかもしれないと思います。

前回、「ツインレイは大きな振り子なのではないか」ということを書きました。

そのあと、もう一つ気づいたことがあります。ツインレイでよく言われるランナーとチェイサーも、振り子の両端なのではないかということです。

一般的に、相手を追いかける側をチェイサー、関係から逃げる側をランナーと呼びます。

チェイサーは「会いたい、つながっていたい」と思い、ランナーは「距離を取りたい、自由でいたい」と思う。一見すると、正反対の二人です。

でも、もしかすると同じ振り子の反対側を、それぞれが担当しているだけなのかもしれません。

一人が「つながりたい」という端まで振れると、もう一人は「離れたい」という端まで振れる。近づけば遠ざかり、遠ざかれば追いたくなる。そんな関係が生まれます。

では、チェイサーの中には「離れたい私」がいないのでしょうか。ランナーの中には「つながりたい私」がいないのでしょうか。

私は、そんなことはないと思っています。

チェイサーも本当は、誰かと深くつながることが怖いのかもしれません。ランナーも本当は、愛されたい、そばにいてほしいと思っているのかもしれません。

自分では気づいていない反対側の気持ちを、相手が見せている。そんなふうにも考えられます。

だから、「チェイサーが追いかけるのをやめれば、ランナーが戻ってくる」という単純な話ではないのでしょう。

大切なのは、相手を動かすために自分を変えることではなく、自分の中にある反対側の気持ちにも目を向けることだと思います。

追いかけている人なら、「私の中にも、深くつながることを怖がっている部分はないだろうか」と考えてみる。

距離を取っている人なら、「本当は誰かに愛されたい気持ちもあるのではないか」と考えてみる。

振り子は、一方の端だけでは存在できません。

「近づきたい」と「離れたい」。「愛されたい」と「傷つきたくない」。「一緒にいたい」と「自由でいたい」。

どちらかが正しくて、どちらかが間違っているのではなく、どちらも人の中にある気持ちです。

そして、ランナーとチェイサーの役割も固定されたものではないと思います。追いかけていた人が逃げる側になることもあれば、距離を取っていた人が追いかけたくなることもある。

振り子なのだから、動くんですよね。

私が考える統合とは、どちらか一方の役割を卒業することではなく、「追いたい私」も「逃げたい私」も、自分の中にいると知ることです。

誰かとつながりたい私もいる。でも、一人でいたい私もいる。愛されたい私もいる。でも、傷つくのが怖い私もいる。

その両方を認められるようになると、相手に反対側を見せてもらう必要も、少しずつなくなっていくのかもしれません。

そして振り子は、少しずつ中心へ戻っていく。

ランナーとチェイサーは、ただ追う人と逃げる人なのではなく、お互いが切り離してきた「もう一人の自分」を、両端から見せ合っている関係なのかもしれません。

そう考えると、サイレントという時間の意味も、少し違って見えてくるように思います。